豊後町の車は中津祇園史上最初の祇園車であり、現在の祇園車の原型と言わています。天和3年(1683年)、豊後町有志から「闇無浜神社の祇園社は京都の祇園社から勧請された由緒正しい祇園社です。私たちも京都の祇園にならって美麗な山車を出してはどうでしょうか」との発意がありました。これに対しに当時の中津藩主である小笠原長胤はこの 事を許し、早速京都に山車を発注し、豊後町に与えました。これが中津の「祇園車」の発祥とされています。
このとき、長胤公は祇園車だけでなく、御神殿も同時に与えたので豊後町の祇園車は「御神殿奉斎車」という格の高い車となりました。車全体を朱の漆で塗られた優雅な車であったそうです。車後上部の鳳凰の裏には安政四年(1857)の裏書が確認され、台輪や兜金などには明治四十四年(1911)に大規模な補修を行ったという記録も確認されています。丸柱の採用や、男柱の外側への配置、二階部分のない二層式の構造など、現在の祇園車では見られない構造上の特徴がたくさんあります。
「踊り車」に対して、豊後町の車は「楽車」と呼ばれ、辻では「影向楽(ようごうがく)」という舞が披露されていました。笛の音に合わせて鉦が拍子をとり、白の唐衣に真紅の母衣を背負った稚児たちが輪になって舞うというものでした。舞が終わると、車の後に稚児が続き、老舗の傭人が大傘を差してあげたり、大団扇で煽ってあげたりして稚児に付き添ったそうです。
囃子も「チキチンチ キチンチキチンコンコン」ではなく、傘鉾が後に付き、笛の入った優雅な囃子であったと伝えられています。昭和33年(1958)ごろを最後に祇園祭には参加していませんが、青年有志の手により、平成15年(2003)に展示山車として復元されました。 |