堀川町の台輪堀川町の初代踊車は、時の中津藩主、奥平昌高公より、藩主になった内祝いとして寄進を受けておりました。

幕末、攘夷論で国内が沸騰していた文久元年(1861)7月、中津でも三百間の浜にお台場を築いて砲台を置き、海防を図ることになりました。
この工事は早急に成し遂げならず、堀川町の石工たちは、お台場の石垣と砲台の石垣を造るように厳命されます。

堀川町の石工たちは全力をあげて石を加工し、三百間の浜へ運びますが、どうしても大量の石を運ぶことができません。
そこで、石工たちは、堀川町踊車の台輪を組み立て運びますが、その結果、堀川町踊車はぼろぼろになってしまいます。

後年、このことを知った中津藩最後の藩主、奥平昌遭公は堀川町に二代目の踊車を寄進します。
この祇園車は非常に動きが軽い上に、石工や大工といった力自慢の引き手が多く、まさに宙を浮くような勢いで疾走し、人々から『鬼車』と呼ばれていたそうです。

明治40年(1907)、三代目となる現在の踊車が建造されると、二代目の踊車は欄間だけを残し、福岡県田川地方へ33円で売却されました。

画像は、「台輪」を組み立てている最中の堀川町踊車です